明君と賢臣は善悪正邪の根本なり、人は明君と賢臣を見ることでそれに従う!
1.“人”としての本質的要素と付属的要素
“人”の要素は、本質的要素と付属的要素から成り立っています。本質的要素とは『道徳性(修身や徳性を磨くこと)』のことであり、これがなければ“人の格好”をしていても“人”とは言えず、この『道徳性』があることで“人”と言えます。また、付属的要素とは、あればあるに越したことはないが、“利”を得るために非常に大事な『知識や知能』『技術や技能』のことです。
2.明治150年の“正”の遺産
幕末の黒船来航により、日本は西洋文明に驚嘆し、この西洋文明に負けない近代化を図るべく、明治政府は文明開化の道を早急に進めるために、若手で有能な人材を養成するために『大学』をつくりました。
その大学の予備校として『高等学校』をつくり、その予備教育を『中学校』で行い、その基礎と初級教育を『小学校』で行う仕組みにしたことで、付属的要素の『知識や知能』『技術や技能』の習得を優先しました。
その結果としての明治150年の最大の功績は、日本が技術大国になるための土台を創ったことです。
3.明治150年の“負”の遺産
しかしながら、そのために“人”としての本質的要素である『道徳性(修身や徳性を磨くこと)』の教育が付けたりになり、徳川時代の“人物や学問の教育”がなくなってしまいました。
一時期の“食品偽装問題”や、今日の“大企業のデータ改ざん問題”、行政(官僚)の“障害者雇用の水増し問題”、スポーツ界の“団体不祥事”など、これらの問題の根本原因は、徳川時代の“人物や学問の教育”がなくなってしまった結果と言えます。
多くの企業が人の採用に際して、“人柄(人物性)”を重視しながらも、採用後は即戦力化のために、付属的要素の“知識や技術”だけを習得させ、人事考課の基準を『人物性(大人型)』ではなく、『利(小人型)』を重視して評価しています。そのため、次の時代を担う若手層の“人徳・人望のレベル低下”は、今後さらに悪化することを覚悟しなければなりません。
これは一企業の問題ではなく、“人物や学問の教育”を忘れた、明治150年の大きな“負の遺産”なのです。
4.武士道(義)を根底にして、商人道で“利”を産み出す
日本の歴史は、宗教的な教えではなく“道”からの教えが精神基盤の根本にあり、神仏儒習合を発展させた徳川時代の『武士道(義)』と、徳川時代の三大改革を乗り越えて、今日の経済大国の土台を創った『商人道(正道商い)』は、日本が世界に誇る遺産であり、この遺産で発展できたといっても過言ではありません。
5.次の100年への絶対条件 <国家100年の大計>
しかしながら、この二つの遺産をさらに発展させることを国(行政)や企業が忘れ、ただ浪費しているのが現状です。この遺産をこのまま浪費するだけでは、やがて途絶えてしまい、世界における日本人の存在意義(和の精神)も問われてしまいます。この遺産浪費(依存)体質から、新たな遺産生産体質に企業自らが大転換を図って人物育成に取り組まなければ“次の100年”が見えて来ません。
全従業員に、人としてのしっかりしたものの見方・考え方を教えることも、経営者(明君)の仕事なのです。